[読書案内] 形態論の入門書・教科書・概説書

もくじ

はじめに:このページの特徴

2024年に乙黒亮さんと共著で『形態論の諸相 6つの現象と2つの理論』という教科書・概説書を書きました。ここで言う「形態論 (morphology) 」は言語学の中でも「語 (word) 」を対象にした研究領域のことです。

形態論の諸相 6つの現象と2つの理論|くろしお出版WEB

この本は、ある程度言語学・形態論についてなじみのある人が自分で分析を書けるようになるまでをサポートする「中級」の教科書ということを意識して書きましたので、形態論の1冊目の入門書としてはおそらく難しいです。

そこで、このページでは『形態論の諸相』への準備段階で参考になりそうな形態論の入門書・概説書・教科書をいくつか紹介します。洋書(英文)はたくさんあるので、和書を中心にします。

紹介する本は比較的さいきんのものを中心にします。理由は2つあって、1つ目は新しい本ほどまだ評価に関する情報が世の中に出ていないので詳しくない人にとっては判断材料が少ないということがあります。もう1つの理由は、個人的にこういう類の本はできるだけ新しいもので勉強するのが良いと考えているからです(内容が適切なのは前提として)。ここで詳しくは論じませんが、問題意識はたとえば下記の記事に近いです。

(再掲)「哲学を学ぶなら岩波文庫を全部読め」を信じてはいけない理由

なお、私の主な専門は現代日本語(共通語)を対象にした生成言語学(いわゆる生成文法)の研究なので、研究対象や理論面の偏りがあることは差し引いて参考にしてください。

随時加筆・修正します。

背景的な雑談:日本語・英語と形態論

それぞれの本の紹介が読みたい方はここは読み飛ばしても問題ありません。まだきちんとは論じられていない感想レベルの話です。

日本で言語学に入門する場合、日本語(学)か英語(学)に関する本や大学での授業を通して、という人が多いのではないかと思います。実際、下記で取り上げるほとんどの和書が日本語か英語、あるいはその両方を中心にしています。

なじみのある言語を通して言語学に慣れていくということ自体にはもちろん良い面もありますが、形態論という領域への入門に関しては少し注意する点があります。

まず日本語(学)を学ぶ過程では、音韻論や統語論(日本語学では「構文論」や「文法」と呼ぶことも多い)に比べると形態論が1つの領域として具体的に紹介されることが意外と少ないです。屈折形態論(活用や曲用などを取り扱う)は文法を取り扱う話の中で紹介されたり論じられたりすることが多く、派生形態論(語形成論・語構成論とも呼ぶ、品詞の変化や複合などを取り扱う)は語彙論の一部として取り扱われたりするので、「語」を対象にした1つの研究領域として形態論を学ぶ機会が分散されてしまっているように見えます。また、日本語は派生形態論に面白い研究トピックがたくさんあるからか、入門書・概説書・教科書も派生形態論に重点が置かれがちです。

英語(学)を学ぶ過程では形態論は1つの領域として位置付けられているのが一般的ですが、現代英語は名詞でも動詞でも屈折のパラダイムが比較的複雑ではないため、屈折形態論について英語だけで解説しようとすると面白い研究トピックや言語現象の紹介が難しいことがあります。ただシンプルで導入には向くため、形態論の入門書で最初の例は英語、というパターンは多いです。

それでも日本語・英語ともに形態論で面白い研究トピックや言語現象が豊富にあることで、形態論全般を学ぶためには知っておいた方が良いけど日本語・英語を通しては学びにくいもの、に気付きにくいというのが難しいところです。

本の選び方や準備についての個人的おすすめ

バランスの良い入門書・概説書・教科書というものはありますが、これ1冊あれば完璧というものはありませんので、複数の本を通して学ぶのが結局は理解度の点でも理解への到達の早さという点でも優れていることが多いというのが私の体感です。

それを踏まえた上で、独学(学ぶに当たって教師(役)の人がいないケース)の方には、特に複数の本を通して勉強することをおすすめします。勉強会や読書会などで教師の役割ができるくらい自分より詳しい人がいる場合は、1冊の本で集中的に勉強するというやり方も良いでしょう。教師(役)の人がその本の問題点や不足している点を補うことができるからです。

先に簡単におすすめを書いておきます。

まず、複数読むのが理想とは言ってもじゃあ1冊選ぶならということでしたら、小野尚之 (2024)『ベーシック形態論』(ひつじ書房)をおすすめします。分かりやすさ、トピックのカバー範囲ともにすごく良いバランスです。

英語を苦にしない、英語にチャレンジしたいというなら Lieber, Rochelle (2021) Introducing Morphology 3rd Edition. (Cambridge University Press) がなんといってもおすすめです。ちなみに小野 (2024) の文献ガイドに「(Lieber本が)この本を書きたいと思ったきっかけ」と書いてあってすごいと思いました。私はLieber本を読んだときにもう初級の教科書はこれさえあれば良いじゃないかとなったので。

勉強を進める上で用語や概念を調べるサポートになるものとして、『明解言語学辞典』『明解方言辞典』(ともに三省堂)を挙げておきます。まず両者とも専門の辞典としては比較的安価です。『明解言語学辞典』は形態論関係の用語・概念を広くカバーしていて、それぞれの項目のコンパクトさと内容の充実度のバランスもすごく良いです。『明解方言辞典』の形態論関係の項目は言語学の一般的な解説としても読めるものが多くやはりコンパクトながらも内容が充実していて素晴らしいです(下で紹介しているHaspelmath and Sims (2010) が文献として紹介されていたりします)。

本の紹介

初学者向けのおすすめ

和書、洋書それぞれでまずはこの1冊というものを紹介する。

小野尚之 (2024)『ベーシック形態論』ひつじ書房

ひつじ書房のページ

難易度・使い方

言語学に少しでも入門したことがある初学者なら問題ない易しさ。この本自体にも簡易的な言語学への入門がある。記述や解説も全体的に平易で分かりやすい。入門書・概説書・教科書いずれにも向く。

形式面での特徴

練習問題、次のステップへの文献ガイド、索引付き。

総評・内容面の特徴

和書でどれか1冊入門書を選ぶならこれ。形態論の基本的なトピックと用語・概念をかなり幅広くカバーしている。たとえば語彙層 (lexical strata) のところでは簡単ながら英語史と日本語史にも触れているし、日本語の漢語関係の形態素の扱いの難しさなども取り上げている。それらが具体的な言語現象の話ときちんと紐づけられているところがまたすごい。ただカバー範囲が広い分個々の解説は簡潔なのでこの本だけで十分な理解が得られないこともあるかもしれない。皆が頭を悩ますであろう “Construction Morphology” の訳語を「コンストラクション形態論」としているのは人によってはそのままかよと思うかもしれないが個人的には用語についてよく検討されているなという印象を持った。

Lieber, Rochelle (2021) Introducing Morphology 3rd Edition. Cambridge University Press

Cambridge University Pressのページ

難易度・使い方

言語学への入門の次のステップでチャレンジできる程度の易しさ。解説は簡潔かつ分かりやすい。入門書・概説書・教科書いずれにも向く。

形式面での特徴

練習問題あり。重要な用語とその簡潔な説明のリスト (Glossary) もあって簡単な辞典代わりにもなり便利。索引には人名や言語(名)も含まれる。

総評・内容面の特徴

和書・洋書の区別なく1冊良い入門書を選べというならこれ、という本。この1冊を一通りこなせば形態論についてはかなりのトレーニングができる。内容のカバー範囲と個々の解説の充実度両方が高い水準でバランスが取れていて、幹母音 (theme vowel) や参照規則 (rule of referral) など和書の形態論本ではなかなか解説に出会えないものも多く取り上げている。例は英語が多いが英語以外の言語からもかなり例が挙げられている。ただしグロス付きの例文は少ない。3rd Editionで追加された形態理論に関する章もコンパクトながら具体的で分かりやすい概説になっている。

対象言語の観点から

どの言語を扱っているかという点から見たおすすめを紹介する。

日本語記述文法研究会編 (2010)『現代日本語文法1』くろしお出版

くろしお出版のページ

難易度・使い方

言語学入門の次のステップとして十分取り組める易しさ。入門と並行してやっても大丈夫かもしれない。後半が形態論だが、前半部分にある総論が文法論へのイントロになっていて形態論の理解への助けになる。解説は簡潔で例が豊富。入門書・概説書に向く。

形式面での特徴

シリーズ全体の総索引が付いていて便利。文献はごく一部しか挙げられておらず読書案内もないので次のステップは自分で探す必要がある。

総評・内容面の特徴

上の「背景的な雑談:日本語・英語と形態論」で述べたように日本語学関連の本では形態論としてまとまった概説はあまり多くなく、この本のような(日本語学における形態論の)導入はけっこう貴重ではないかと思われる。現代日本語(共通語)の豊富な例に触れながら形態論の基本を学べる点が良い。ただし用語・概念には「助詞」「連体詞」「助動詞」など日本語の研究独特のものも多いので形態論の入門・概説としてはほかの文献によるサポートがほしいところ。

今仁生美他訳 (2021)『形態論と語形成』開拓社

開拓社のページ

「英文法大事典」シリーズの第10巻。

難易度・使い方

言語学入門の次のステップとして十分取り組める易しさ。用語が多く登場し文体が硬めなことと英語を扱っていることから内容よりも難しい印象を受けるかもしれない。解説が充実した概説書としての性格が強い。洋書(英文)の訳書だが、読みやすい文章だと感じる。

形式面での特徴

トピックごとの文献ガイド、索引付き。

総評・内容面の特徴

「英文法大事典」シリーズのうちの1巻ということもあって、入門というよりは解説が充実した概説書という1冊。英語を対象にした派生形態論、屈折形態論の両方について豊富な例と解説が読める。表記や音韻面の話題もかなり取り上げている。特に英語の屈折のパターンと派生接辞について概説書でここまで具体例を多く挙げている和書はなかなかないのではないか。

Haspelmath, Martin and Andrea D. Sims (2010) Understanding Morphology 2nd Edition. Routledge

Routledgeのページ

難易度・使い方

取り上げている内容の難易度そのものは言語学入門の次のステップとして十分取り組めるものだと思うが、さまざまな言語から例を挙げているので言語現象の理解のために補足情報を調べる必要が出てくることがある。入門書・概説書・教科書いずれにも向くが、入門書としてはここまで紹介してきたものより少し難しいかもしれない。

形式面での特徴

詳細な練習問題(+ヒント)、重要な用語とその簡潔な説明のリスト (Glossary) 、索引付き、言語索引は独立していて系統などの詳細な情報が付いている。

総評・内容面の特徴

さまざまな言語の例に触れながら形態論の多様なトピックを学ぶことができる。このタイプの本は和書ではまだないのではないだろうか(僭越ながら難しくても良ければ拙共著『形態論の諸相』が一部実現できていると思う)。登場する言語の多様さだけでなく、取り上げられている議論の抽象性の点でもLieber (2021) よりやや難しいという印象があるが、この1冊をこなせれば形態論だけでなく言語学に関するかなりのトレーニングを積むことができる。形態論の入門では屈折形態論と派生形態論をまず分けてからそれぞれの導入を行うのがスタンダードなやり方だが、屈折と派生の違いと具体的な線引きについて1章を割いてかなり詳細に解説している点に特色があり、また形態論の入門・教科書として良い点である。Lieber (2021) とこの本を両方やるのは大変という場合は、Lieber (2021) に加えてその “Inflection and derivation” と “Inflectional paradigms” だけでも見ておくことをおすすめする。

そのほか

漆原朗子編 (2016)『形態論』朝倉書店

朝倉書店のページ

朝倉日英対照言語学シリーズの第4巻。章ごとに執筆者が異なる。

難易度・使い方

平均すると言語学入門の次のステップとして十分取り組める易しさだが、章ごとに難易度にもややばらつきがある。文体も全体としてはやや硬め。入門書・概説書・教科書いずれにも向くが、教科書として使う場合は章と章のつながりや順番を自分で補う必要があるかもしれない。また各章の解説は簡潔なので理解するためにほかの本を読んだり調べたりする必要も出てくる可能性がある。

形式面での特徴

各章に比較的詳細な読書案内と演習問題、参照文献リストが付く。全体に索引と 英和対照用語一覧付き。

総評・内容面の特徴

上で紹介した小野 (2024) が出る前は本書を形態論の入門書・概説書の1冊目としておすすめしていて、担当している大学院での形態論の授業でもよく参照している。特に編者の漆原朗子氏による第1章は基本的な用語やトピックだけでなく記号の使い方などへも言及があり、初学者にとってとても良いイントロになっている。伊藤たかね氏、杉岡洋子氏による「語の処理の心内・脳内メカニズム」、松本裕治氏による「形態論と自然言語処理」の章など内容が豪華かつ幅広い。1冊通しての入門・概説というより各章ごとに入門するという気持ちで臨むのが良いかもしれない。章ごとの独立性も比較的高いので用語や内容の整合性について気にしすぎない方が良い。

由本陽子・杉岡洋子・伊藤たかね (2024)『語の文法へのいざない』ひつじ書房

ひつじ書房のページ

難易度・使い方

各トピックのイントロ部分は言語学になじみがなくても大丈夫なくらい分かりやすく書かれているが、時折かなり発展的な議論も取り上げており、初学者には理解に時間がかかりそうなところもある(多くはない)。非常に平易な文章で書かれており読みやすい。入門書・概説書・教科書いずれにも向くが、各トピックの解説は簡潔なので理解するためにほかの本などのサポートが必要になることがあるかもしれない。

形式面での特徴

各章に練習問題と読書案内が付く。全体に文献リスト、語彙索引、事項索引付き。

総評・内容面の特徴

派生形態論への入門・概説。「「名詞+名詞」の複合名詞」「名詞から動詞への転換」など、言語現象を軸にした各トピックごとに章が構成されている。それぞれの研究を牽引してきた研究者がイントロからある程度専門的な分析までまとめてくれているので、初学者以外にとっても個々のトピックを概観するのに良い。また派生形態論に特化しているために特に分析面で語彙概念構造 (LCS) やクオリアまで幅広く紹介されているのも特徴。入門書としては比較的専門的な議論も紹介されているが、言語現象の丁寧な観察・整理とセットになっているので分かりやすくなっていると思う。

西山國雄・長野明子 (2020)『形態論とレキシコン』開拓社

開拓社のページ

最新英語学・言語学シリーズの題9巻。

難易度・使い方

ここまで紹介してきたものよりはやや難しく、少なくとも言語学への入門はある程度終えているのが望ましい。上記に紹介した本などで形態論への入門を平行してやるのが良いかもしれない。入門書としても使えるが解説が充実している概説書としての性格が強く、その分それぞれの解説や文献情報は詳しい。文体も比較的硬めだが文章は読みやすい。

形式面での特徴

西山國雄氏、長野明子の両氏で執筆の分担がはっきりしている。文献リストは全体に付いている。索引付き。

総評・内容面の特徴

内容としてはかなり専門的なものも多く取り扱っているが、このページで取り上げているのは冒頭に和書では貴重な形態論(研究)史がまとめられているからである。また、形態素や語彙素といった基本的な用語・概念について専門的にどのような取り扱いがされているのか知ることができる、より高度な入門としての側面もある。言及されている文献は数が多いだけでなく、和文文献ではあまり参照されるのを見かけない研究者や文献についても丁寧に紹介しており、形態論を専門にしている研究者にとってもありがたい1冊。各執筆者が専門としている形態理論を用いた具体的な分析が示されており、どのように形態論の研究をすれば良いのかというお手本としても参考になる。

今後紹介するかもしれない本

宮岡伯人『「語」とは何か』三省堂.

沈力編『類型論から見た「語」の本質』ひつじ書房.